【禅語】冷暖自知(れいだんじち)
禅語「冷暖自知」は、世に知られている禅語のなかでも、もっとも有名な言葉の1つといえるでしょう。
先に要諦をいえば、この禅語は自分自身で体験することの重要性を説いた言葉です。
人から聞いただけの借り物の知識でなく、自分自身の体験を何よりも大切にするように。それこそが本物の知識なのだと。
たとえば、友達がイタリアンのお店に行って
「あそこのピザがすごく美味しかったよ」
と教えてくれたとする。
すると私は、
「あのイタリアンの店のピザは美味しい」
という情報を得ることになるのだが、その情報はまだ知識と呼ぶにはほど遠い、上辺だけのものでしかない。
この、
「単にそのことについて知っている」
という意味での「情報」は、「知識」とは質的にまったく別ものと言っていい。
知識になる前段階のものということである。
「情報」と「知識」の違いは、僅かなようでまったく別次元の事柄なのでよくよく気を付けておかなくてはいけない。
現代社会では頭に所有する「情報」を指して「知識」と呼ぶことがあるが、それはかなり危うい混同といえる。
誰かが体験した出来事を聞いて、たとえそれがどれほど共感でき想像できることであったとしても、その体験談が自分の体験になることはない。
当たり前のことではあるが、情報はどこまでいっても借り物にすぎない。
自ら知るのでなくして、何かを本当に知ることなど、できはしないのである。
お風呂から出てきた人から
「いい湯加減だったよ」
と言われても、実際に自分でお風呂に入ってみなければ本当にいい湯加減なのかはわからないだろう。
なぜか。
その人はぬるいお風呂が好きかもしれないし、熱いお風呂が好きかもしれないから。
つまり主観的な「いい湯加減」が、ぬる目の湯加減を指しているのか、それとも熱目の湯加減を指しているのかは他人にはわからないのだ。
「いい湯加減」が自分にとっていい湯加減かどうかは、自分で体験しない限り絶対にわからない。
人は自らの体験を述べるとき、主観としてしか述べることができないのである。
どれだけ客観的に話しているつもりでも、自分が話しているという時点ですでに客観的事実に主観が混ざり込んでいる。
だから冷たいか暖かいかは、必ず自分自身で体験してみなればわからない。
それが「冷暖自知」。
ピザの情報、ピザの知識
再びピザを例にして考えてみたい。
ある店のピザを食べたことがある人を100人集め、その100人にピザの味を訊き、100通りの答えを得たとする。
そうすればそのピザの味は、情報としてはほぼわかったことになる。
そこで人から、
「あのお店のピザってどんな味がするの?」
と訊かれたとする。
100通りの情報を知っていれば、きっとそれらしい答えを言うことができるだろう。
これこれこうで、こんなところが美味しいんだよ、と(みんなそう言っていたから)。
でも、それで自分は何を答えたことになるのだろうか?
本当にそれは、ピザの味を答えたのだろうか?
違う。
それはピザの味ではなくて、ピザの味についての情報を答えたにすぎない。
いかにも全てを知ったような口調で説明できたとしても、それは所詮情報でしかなく、知識ではないのだ。
本当はその味について、「自分は」何も知らないままなのである。
ではどうすればピザの味を情報としてではなく、知識として知ることができるのか。
何も難しいことはない。すこぶる簡単だ。
当たり前の話だが、100人に訊くような苦労を経ずとも、ピザの味について本物の知識をはっきりと知る方法は、実際に食べてみることである。
それだけですべて事足りる。
一口、ぱくり。
すると、生地がもっちもちで、チーズとバジルの香りが口中に広がった。
人からそのとおりに聞いていたから、そのピザの生地がもっちもちで、チーズとバジルの香りが素晴らしいことは知っていたかもしれない。
でも、実際に体験して、自分の舌で実際に感じることで、やっと本当の意味で「知る」ことができる。
その段にいたって、はじめて「知る」に値する経験を積んだことになる。
これが冷暖自知。
「知る」に違いはないのに、聞いた「知る」と、体験した「知る」の内容はまるで別物。
それはまさに、本物と偽物の違いそのもの。
知っているつもりでいながら、本当には知っていないもの。
あなたのなかにもありはしないだろうか。
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